feel it

  「ありがとうございます」


 そう口にした少年は10年前、自分に助けられたという。
 少年は特別な出来事だったというが、蒼一郎にとってはそんな出来事は何度もあった事で特別覚えていることではなかった。
「……それなら以前聞いたが」
 そう言えば、夕焼け色の瞳が一瞬目を丸くして、 「あ、えっと、そうじゃなくて……いや、それもそうなんですけど!」
 とバタバタと手を動かして忙しない。それから顔を真っ赤にさせて、それからゆっくりと涼太の唇が動いた。
「先輩に聞いたんです」
「……」
「昔、お兄さんが大好きで、凄い優しくして貰ったって」
 それの何がありがとうなのか、ますます蒼一郎は理解できなかった。
 むしろ恨まれても仕方ない。英雄になると、弱さや優しさを棄てると決めた時に可愛がっていた大切な弟も棄てた。
 そうすることが正しかったからだ。
 だというのに、彼は何故か御礼を言う。
「それを聞いて、オレの大好きな人が優しいのは、貴方のお陰なんだなって思って」
 そう頬を赤らめて、此処にはいない弟を目線で探すように目の前の少年は地面を見つめていた。
「……」
「だから、明宮蒼一郎は、オレにとって命を助けてくれてありがとう、と先輩が今の大好きな、優しい人にしてくれてありがとうって思うんです」


 大して、能力があるわけでもない。
 才能が特別あるわけでもない。
 それでも、何故か目が離せない嵐のような存在だと、元チームメイトが言っていた存在。
 英雄を辞めるわけにいかない自分に『なら、みんなが英雄になればいい』と言った少年。
「勿論、先輩にとっては嫌な事だったって解ってるんですけど……」
「……っ」
 その様子にたまらずに、あの時のように大声を出して笑うと、目の前の少年は「え?えぇ?」と声を出して目を丸くしてこちらを見つめていた。
「あっはっは……君は、本当に、」
「?」
「面白い子だなと思って」
「そうですか?」
「これでも、君には酷い事を割と言ったと思うのだが」
 それくらいは理解しているのに、意地悪く言えば、「それでも、」とふわりと微笑む。
「あなたは俺の憧れです」
 尊敬してます、と告げられる。


 その言葉は言外に永遠にそれ以上になれないという意味で。
 一人で結局歩く事になった道に後悔はないけれど、けれど、目の前の少年はきっと弟の手を絶対に手放したりしないのだろうなと思うと少しだけ羨ましく思えた。
 しまい込んだ筈の人間らしさが少しだけ顔を覗かせて、何か言おうかと口を開いた。
「あ、先輩だ!」
 でも、それよりも先に憧れだと言っていた自分を見つめているよりもずっと、目の前の少年の瞳が煌めきだした。
 手を振られた相手は、こちらを見て嬉しそうな顔をして、それから自分を見て一瞬怪訝そうな顔をした。
 でも、弾んだ声で少年の声を呼ぶ。


 彼が言うように、弟が優しいのだとしたら、それは弟の母のお陰であってきっと自分のお陰ではないし、ましてや彼に優しいのだとしたらそれは彼自身が弟にとって特別だからに違いない。
 甘える事が下手糞だった弟が、少しでも甘えられる場所を手に入れられたならそれは喜ぶことだろうに、それでも少しだけ寂しかった。







「……兄さんと何を話してたんだ?」
 未だに少しだけ気まずいのか、紅二郎は蒼一郎と以前よりは話すようになったものの、涼太の前ではあまり会話をしない。
 最も、それは涼太が思ってるだけであって、実際は目の前の可愛い恋人が、冷たくされてもそれでも未だに自分の兄に夢中だからなのだが。
 自分のことを好きでいてくれる感情が嘘だとは思わないけれど、それでも気にしてしまう。
 本当は、涼太は、などと。
「……笑いません?」
「笑わないよ」
「……嫌な気持ちにさせちゃうかも」
「いいよ」
「……」
「涼太の言葉なら、なんでも嬉しいから」
 そう言われたら観念したのか、恥ずかしそうに顔を真っ赤にさせながらも、ごまかせないと思ったのか上目遣いで尋ねてくる。
「……あの、ですね」
「うん」
「……先輩が、」
 そう言って、涼太は口を噤んだ。
「涼太?」
「紅二郎さんが」
 それからおずおずと、恥ずかしそうに自分の名前を呼んではにかむように笑う。
 自分だけに見せてくれるその笑顔が、たまらなく好きだった。
「俺の大好きな紅二郎さんになったのは、明宮蒼一郎のお陰なんだなって」
「……涼太」
「紅二郎さんには、嫌な過去だって解ってるし、辛かった事だってあるんだろうなって解ってるんです」
「……」
「でも、紅二郎さん、お母さんとお兄さんだけは優しくしてくれたって言ってたから、ああ、この人のお陰で、俺の好きな人はこんなに優しいんだなぁって」
「……涼太」
「勿論、10年前俺を助けてくれた事も全部全部ありがとうですけど」
 えへへ、と照れくさそうに鈴を転がすような音で彼は笑う。
 まるで妬いていた自分が馬鹿らしいと思うほどに。
「あっ、でも」
「?」
「俺がプロのセプターになったら、明宮蒼一郎じゃなくて、俺が先輩の『ソード』になるんですからね!そこは譲りませんから!」
「え?」
「明宮蒼一郎相手でも、絶対にそこは負けませんから!」
「……」
「絶対、絶対ですよ!」
 そう言う涼太の姿につい一瞬何を言われたのか戸惑った。
 確かに涼太に前、小さい頃はプロセプターに自分もなって兄とチームを組みたかったと言ったが。
「……っ」
「ああ、先輩!!笑った!!」
「あはは、だって……」
 本当に妬いているのが馬鹿みたいだ。
 それどころか、あんなに兄を尊敬している涼太がまさか兄に妬いているだなんて思いもしなかった。
「もう、先輩笑わないでください」
「あはは……ごめんごめん」
「もう」
「それより涼太、俺の名前、また先輩に戻ってる」
「……せ、九々生先輩は笑ったから今日はもう終わりです!」
 そう恥ずかしそうに告げる恋人は本当に可愛い。
「俺としてはずっと名前でよんでほしいんだけどね」
「……」
「もう呼んでくれない?」
「……」
「涼太」
 そう言われたら、もうこっちが折れるしかない。
 涼太は言わないけど、出会ってずっと大人だった彼が最近、甘えてくれるのが嬉しい。
 前は頼って欲しいと思っても、支えさせてもくれなかったのに、殴り合いの喧嘩――といっても結翔の喧嘩に半ば巻き込んでしまった――をしてからだ。
 少しずつ壁が薄まって、自分で壊して、その内面を見せてくれるようになって、ああ、この人が好きだと心の底から思った。
 それから、たまに甘えられるようになって、ああ、確かにちょっと弟っぽいかも、と実家にいる妹の我が儘を思い出してしまう。
「……ずるいですよ、本当」
 そう言うと破顔させる恋人。
 彼の優しいところが好きだ。
 でも、時々意地悪なところも、こちらを試すような行動も、下手くそな甘え方だって全部愛しい。


「紅二郎さん」


 そう言って、彼の手を握りしめた。
 それから、時計の針にすら邪魔されないようにペースを合わせて歩き出す。  




 恨んで、憎んで、何も信じたくなくて、なのに、嵐のような目の前の子が現れて、全てを壊していった。
 最初は大切にしたい後輩の一人だったのに、気がつけば好きだと思った。
 いつでも前を向いていて、自分で出来ない事を次々としていくその姿、そして兄に憧れていた頃の自分のようなその無邪気さ。
 太陽に手を伸ばせば焼かれると解っていた。
 だから、必死で思いに蓋をしたのに、彼の方から手を伸ばされて、どれだけ自分が嬉しかったかなんて彼は解らないだろう。


 永遠に、大切なものが形に変わらないなんて事がないことを紅二郎は誰よりも知っている。
 でも、涼太との関係は形が変わってしまってもいいと思った。
 きっと、歪になったその形さえ、きっと未来の自分は愛しいと思える。


 だって、彼は歪んでしまった忌まわしい自分の過去すら愛しいと思ってくれる子だから。