悪い子

   今にも泣きそうな顔で月を見上げて祈るその姿を見た事がある。
「…橘、何してるの?」
「そらくん」
 名前を呼べばくるりと振り向いていつものように笑った。
「あのね、お月様を捕まえてお願い事叶えて欲しいんだぁ」
「流れ星じゃなくて?」
「だってお月様にお願いごとをしたら叶いそうだから!」


 眼をキラキラとさせる央太に宙は「そうだね」とふふと笑った。
 中等部から突拍子もない事をする後輩だが、宙はこの後輩が好きだった。自分と志朗のユニットは中等部がいないし、宙の設立した天文部は宙しかいないので自分を慕ってくれる橘のような存在は貴重だった。
「何をお願いしてたの?」
「え」
 だが、それを尋ねると央太は動きを止めた。
「橘?」
「え…っと……」
「……あ、言いにくい事だった?ごめ…」
「あ、ちがうの!そらくん、ちがくて……その…」
 そう言ってパタパタと大きく手を動かし、そして、宙の眼を見てまた泣きそうな顔をしていた。
「……橘?」
「……オレね」
「……」
「かすみくんがかえってきてほしいってお願いしてたんだ」
「あ…」
 そう言われて、宙は自分は何て馬鹿な事を聞いたんだろうと思った。
 鳥羽霞。
 宙の少し前まで、クラスメイトだった青年。
 宝石ヶ丘の情報をジェムに流し、少なくない生徒の仕事を妨害していた彼は、同室生の雅野椿に対する冤罪とあたかも異教徒狩りのようなその様子に胸を痛めて自分の罪を告白してこの学園を去った。
「……橘」
「ねぇ、そらくん、オレが良い子になったらかすみくん、帰ってくるかな?」
「……っ」
「そらくん」
 その様子に宙は辛くて、自分より大きな央太の体を抱きしめて、泣いてもいいんだよと背中を撫でた。
「そらくん、どうしたの?」
 でも、央太は強かった。
 否、違う。宙の胸ではきっと彼は泣けないのだ。泣くべきところは此処ではないから。
「…橘は、良い子だよ」
「本当?」
「……俺もお月様と流れ星に祈るよ」
「!」
「鳥羽が、橘のところに帰ってきますようにって」
「そらくん、ありがとう!だいすき!そらくんはすごく優しいよね!」
「ふふふ、ありがとう。橘」
 宙は解ってる。
 否、央太だって理解してる。本当は簡単にいくような事ではないことも、霞がしたことが赦されない事で、この学園で彼の居場所がほとんどないことも。
 それでも――――――


『宙のことは……好きだよ!』
『こっちはこっちの基準で志朗を好きなの』


 自分にも央太の気持ちがわかる。解りすぎてしまう。自分を嫌いになって意固地になって一人で勝手に落ちていこうとする相手の手を握って、此処が居場所なんだと必死で言いたい気持ちが、傍にいてほしい気持ちがわかる。
 風当たりが強くても、そんなもの自分が護るからと胸に秘めた決意が解るから。
「……それじゃあ、一緒に天体観測を―――って、橘って中等部だから自宅通いだよね?家に帰らなくて大丈夫?」
「うん、きっと大丈夫!」
「……」
 その言葉に心配になる。それなら、いっそ――――――
「ねぇ、橘」
「うん?」
「あのね……」





「それで、央太を今日泊めていい?なんていったの?」
「うん、ごめんね。志朗」
「ううん、だって宙の気持ちわかるし」
 寮の屋上。
 寝転がって、三人は星を見つめていた。しかし、途中で疲れて央太は眠ってむにゃむにゃと寝息を立てていた。
「……まったく、鳥羽が帰ってきたら俺、滅茶苦茶怒るよ」
「宙が怒ると恐いから迫力ありそう」
「当たり前。こんな慕ってくれる後輩を泣かせるだなんて信じられない」
「……」
 そうぷんぷんと音を立てるように怒っている宙に志朗は苦笑した。
「……姫の時もさ」
「うん?」
「オレ達、姫が虐めあってる時ももっと力になったりしたら何か変わったのかなって思った」
「志朗は雅野のことちゃんと守ってたよ」
「でも…」
 そう言って、宙が体を起こして、志朗の手を握った。
「……震えてたのに」
「……うん」
 それでも過去を皆悔やむ。もっと自分がこうしたら、もっと違うことをできたなら、そうしていたら、そんなもの何の役にも立たないというのに。
「……毎日、鳥羽の机に座って、月に祈って、こんなに待ち続けてるんだから報われて欲しい」
「……うん」
「自分が悪い子だからいなくなっただなんて、橘が思う必要ないんだって解って欲しいよ」
「……カスミンが帰ってきたら二人で怒ろう」
「…志朗は甘いからなぁ」
「そんなことないって!」
「……誰にでも優しいから……まぁ、それが志朗のいいところで俺は好きだけどね」
「オレも誰にでも一生懸命な宙のそういうとこ好きだよ」
「ふふ、ありがとう」
 そうにこやかに返事して二人はまた空を見た。


 早く、早くこの子に夜明けが訪れたら良い。
 自分達がまた青空を再飛翔できたように。
 また、鳥羽の隣でこの可愛い後輩が笑えますように、と二人は願った。





「……」
「橘くん?」
「あ、ほたるせんぱい!」
 何をしているんだろう、と他に誰もいない自分の教室に入って蛍は思った。
「……なに、してるの?」
「あのね、席暖めてるんだぁ」
 にこにこと笑う央太を見て蛍は央太の座っている席を見つめた。
「そこ……」
「うん」
 そう言って、央太はとても愛しそうにその席に触れた。
「かすみくんのせき」
 そう言う央太の顔はどこか寂しそうで、それでも笑っていた。
「……」
「かすみくんがいつ帰ってきても寒くないようにこうやって温めてるんだ」
「……そう、なんだ」
 その言葉を聞いて蛍は笑った。
「……橘くんは」
「うん?」
「霞が帰ってくるって思ってる?」
「……」
 その言葉に一瞬、央太の眸が揺れた。
 言わなければ良かった、と蛍は心から思った。
「…あ…ご」
 ごめん、と言おうとすると央太は目を細めた。
「ほたるせんぱい、ななおにきいた?」
「……うん」
 スパイ疑惑、上手くいっていない椿や鈴の練習、そしてどこかイラだったような七緒の様子。
 七緒は優しい子だ。
 勿論勘違いされそうなところもあるし、本人もわざと煽るような事を言うけど、根はとても優しい子だ、と蛍は思っている。
「……オレね」
「うん」
「お父さんもお母さんも妹もいつも応援してくれるから、かすみくんの気持ちわからないんだ」
「……」
「ほたるせんぱいは、誰かと自分を比べて辛くなったこと、ある?」
「……」
 その純粋な瞳に蛍は胸が鷲掴みされたような気がした。
 勿論、ある。
 自分のほうが好きになって、追いかけたモノを後ろからやってきた弟に奪われ続けた。
 でもそれで弟を怨む気はなかった。
 否、自分は最後の最後で弟を嫌いになりたくなかった。
 嫌いになりたくないから、距離をとるしかなかった。
 傍にいなければ、一緒にいなければ、別々の道を行けば自分は自分でいられる。
 千紘の事が好きかどうかと聞かれると解らない。好き、だとは思う。
 でも、許せるかというとどうだろう。
 過去の自分が囁くのだ。そいつはお前の夢を奪おうとしたんだぞ、と。
 なんて汚いのだろう、と思う。
 でも、それでいいのだと、自分の大切な人が言ってくれた。だから、それでいいのだと思う。
「……あるよ」
「……」
「でも、それも自分で向き合わなきゃいけないことだから……」
「……」
「だから、どうすることもできないんだよね」
「……そっか」
「……」
 そう言うと、央太は「じゃあ、オレの出来る事なんて何もないのかな」とぽつりと呟いた。
「……橘くん」
「世界中の全員が、」
 そう言って央太はどこか遠くを見るように見つめていた。
「かすみくんのことが嫌いでも、オレは大好きなのに」
「……っ」
 そう言った央太は泣いていた。
 瞳から涙は流していないけれど、霞はそう思ったのだ。
「かすみくん、やっぱり、オレが悪い子だから、帰ってこないのかな」
「…っ」
「いい子でいたら、帰ってきてくれるかなぁ……」
 そう言う央太は解っているのだ。
 本当は全部解っている。
「かすみくん、オレが悪い子だからきっと帰ってこないんだ」
 霞がしたことは赦されない事だということも、自分がどうにか出来る問題じゃないということも。
 それでも――――――
「…それだけはないよ」
「ほたるせんぱい…」
「絶対ない」
「……」
 その言葉に辛そうに眉をひそめた央太に「あ、そうじゃなくて、」と誤解をとく。
「橘くんは、十分いい子だよ」
「……本当?」
「本当だよ、俺が保障する」
「……」
「だから、」
 だから、と言おうとして蛍は迷った。
 霞は帰ってくる、と言うのは簡単だ。でも、そんな確証はない。
 大丈夫だなんて簡単に言えはしない。
 だから、蛍は一瞬考えて再度声を発した。
「だから、祈るよ」
「っ」
「霞が、橘くんのところに帰ってきますようにって」
 そう言うと、央太は嬉しそうに笑った。
「ほたるせんぱいっ」
「うん?」
「ありがとう」
 そう微笑んだ央太の顔は、夕焼けに照らされて酷く綺麗だ、と蛍は思った。
 そして、ああ、早く、霞が戻ってきてくれますように、と心から祈った。



 毎日、お願いした。
 かすみくんが戻ってきますようにと。
 星にも月にも太陽にも。
 そしたら、匂いがした。
 とても優しくて、ちょっと意地悪で、そして――――――央太にとって一番大好きな人の匂いが。



 その匂いを感じて走り出して。
 顔が見れた時は本当に嬉しかった。  


 そして央太は気づいてしまった。
 霞は央太を、置いていける人なんだと。
 だから、央太は―――――その手を強く握って、もう二度と離れないように願った。



 央太はそのまま練習が終わっても、霞から離れることはなく、そのまま寮へと一緒に戻ってくる事となった。
 そして、央太の隣にいる霞を見て、宙は目を据わらせて仁王立ちで霞を出迎えた。
「へ、辺見どの?」
「辺見、どうかしたの?」
「…鳥羽」
 宙はそっと霞の肩に手を置いた。
「え、辺見」
「ちょっと顔かして」
「え?」
「ちょっと待て、辺見。あの事件のことなら」 「あ、加賀谷先輩、宙はそんなこと多分どうでもいいんだと思うっす」 「は?」 「え、あの、辺見さん?」
「ねぇ、鳥羽。鳥羽がいない間、橘がどれだけ辛い顔して、毎日毎日過ごしてたか知ってる?」
「あー……」
「鈴、何?なんで、納得してるの?」
「それは、怒られても仕方ないよねぇ」
 確実に眼を座らせた宙は鳥羽をにらみつけていた。
 スパイ事件の事ならば三人も庇う気持ちだったが、央太を悲しませた罪を断罪するという意味ならばそれは自分達も言いたい事が沢山ある。
「ちょっと待って、辺見くん」
「蛍?」
 その様子を見てた蛍が近づいてきた。
 混乱する霞に蛍も両肩に手を置いた。
 そして、
「あんな良い子に『かすみくん、オレが悪い子だからきっと帰ってこないんだ』だなんて言わせたらいけないよね、霞」


 今此処に自分の味方はいない。霞はそう悟った。
 宙の隣にいる志朗を見ると「カスミン、大丈夫!」と何故か親指を立てているし、遠くでは「なんか知らんが俺も参加したい!」「辞めなさい、帝」という声が聞こえた気がした。


「だいったい、鳥羽はね――――――」
 そして、宙の大声が食堂に響いた。
 その様子を見て、央太は首を傾げたが、とりあえず霞の手を握って「かすみくん帰ってきた!」と嬉しそうにニコニコしていて、反対側にいる鈴に「央太どの、良かったでござるな、某も嬉しいでござるよ」と此処だけ天国のようにぽやぽやとしていた。
 ちなみに気がつけば説教大会には椿と蓮まで参加していて、霞にとっては耳の痛い話ばかりが聞かせられた。
 更に言えばやはり何故か杏や帝や百瀬、七緒や嵐真まで混ざっており、霞は央太をとりあえず悲しませたんだなぁと思うと胸が痛むと同時に央太自身じゃない人が央太のことで自分を責めるんだろうという疑問も正直抱いたが、それだけ辛い目に合わせたということだけは理解した。
 ため息を噛みしめて、隣を見ればとにかく何が嬉しいのかニコニコと笑う央太がいる。
「かすみくん、みんなと一緒でうれしいね!」
「…そう見える?」
「だって、みんなかすみくんがだいすきだから、怒るんじゃないの?」
 きょとんと言う央太の言葉はどうしようもなく真理をついているようで、霞はハッとした。
「……そうか」
「そうだよ、それに気づかないからそらくんもほたるせんぱいもあいざわせんぱいも怒ってるんだよ?」
「…」
「オレも、すごいすごいかなしかったけど、ミヤくんもりんくんもれんくんも、そらくんもシローくんも、ほたるせんぱいもあいざわせんぱいも、あとあんせんぱいもななおもらんまも、みーんなかすみくんが大好きだから、帰ってきて嬉しいし、勝手にいなくなったから怒ってるんだよ!」
 もう、と頬を膨らませる央太に霞は笑った。もう離さないとしっかりと手は握られて。
もう、と頬を膨らませる央太に霞は笑った。もう離さないとしっかりと手は握られて。 「まったく、大切な人がこうだとお互い苦労するね?橘」 「そうなのです!」 「え、まって宙。大切な人って誰?」 「うーん、志朗には内緒!」 「え~宙~宙~~!!」  ふふと笑って央太は「そらくん、ありがとう!」とにこりと笑った。その笑顔を見れただけで、ああ、本当に良かったな、と宙は思った。 「宙~宙~!!」  そして隣の大切な人はちょっとだけうるさかったのは言うまでも無い。 「本当、大変☆」
「え、央太、何かいったか?」
「ううん、何でも無い!」
 央太はまた笑う。
 目の前の人が大好きだと全身で伝える為に。





 

 霞くんは帰ってきたら皆にたっぷり怒られて欲しいし、央太を寂しい思いさせたことを理解してほしい。