違和感は最初から感じていた。
蓮から見た霞の様子は普通だったけれども、どこか歪んでいるようだった。
それでもあんなことがあったのだから仕方ない、と想っていた。
蓮とて立ち直れたわけではない、それでも前を見て自分達は進まなければならないのだ。
「蓮さん、どうかしたんですか?」
「いや、……たまには二人でのみに行かないか?どうせ家にいても気が滅入るだけだろ」
「ああ、でも…寂しがるといけないから帰りますよ」
くすくすと笑う霞の様子に、蓮はそれ以上追求することなく、「そうか」と言うだけだった。
でも、後から考えたらこの時追求すればよかったと想った。
否、けれどこの時知ったからといって何が出来ただろうか。
きっと蓮には霞の気持ちなど一生理解できないのだ。
そんな霞の様子を椿も聞いていたので出会った時の不自然さは特に気にすることなかった。
どこか危なげだけれども、前向きになっているし明るい様子にむしろ安心したものだった。
「霞、最近、外出してるの?」
「ああ、あんまりしてないなぁ、そういえば…」
「前は休みの日は滅茶苦茶絵を描きに行ってたじゃん」
とはいえ安心とはいえなかったので気晴らしはしているのかと心配した。
「もう、絵は描かないの?」
心配でつい聞いてみると霞は首を振った。
「今さ、大作を書いてる最中なんだよ」
「大作?」
「まぁ、モデルにはへたくそって良く言われるけどさ」
「……モデル?」
霞の絵は確かにお世辞にも上手いとは言えないのでその感性は確かなものだが、でも霞にモデルが頼めるほど仲良い人がいるとは知らなかった。
新しい恋人かと想ったが、それをさすがに聞くのは野暮だろう。
「…へー、出来たら見せてよ」
「ああ、感性したら是非見てくれよな!」
そう言って笑う霞に安心した。
何故気づかなかったんだろう。
想えば、この会話全てが普通のようでまったくおかしかったのに。
「……霞どの」
蓮や椿の話を聞いて、立ち直ったのだと安心していた。
その証拠に久々に家に行っていいかと聞いたら「ああ、是非来いよ。きっと歓迎するよ」と言われたので安心した。
何を見逃していたのだろう。
鈴はそう想う。
よく聞けばおかしいことなんて解ったのに。
誰が?
霞は一人暮らしだ。
なのに、誰が歓迎するのだ?
椅子に座る人物は鈴のよく知る人物だった。
橘央太。
鈴にとって、後輩で高校時代の同室生でもあった。
可愛くて、素直で優しくて、空気はちょっと読めないけれど、真面目で仲間想いのいい子だった。
美しいキャッツアイが、鈴を見つめていた。
けれど、あんなに太陽のように美しかった瞳は何も映し出していない。
当たり前だ。
「…かすみどの、どうしてこんな…」
「なんだよ、鈴。央太と俺が一緒に暮らしてることくらい、知ってるだろ?」
知ってる。
それは知ってる。
でも、それは――――1年も前の話だ。
橘央太という青年は、才能あふれる青年だった。
その才能故に神がすぐに手元に置きたがったのか、若くして難病にかかった。
今の医学ではけして治せない不治の病。
この病気が発覚して、初めて霞と央太がそういう関係性だったのだと知った。
霞は央太を愛していたし、央太は霞を愛していた。
親子のよう、と言われていた二人は実際は恋人であって、深い関係だと知ったものの、スキャンダルになる、と言える人間は誰もいなかった。
霞はそれまで以上に尽くしていた。
央太の残りの時間を二人で過ごす為に。
央太からしてみれば、霞を残す事自体が心配だったのだろう。
鈴も言われたことがある。
花を変えに行くと病室からいなくなった霞を見送った時だった。
「…ねぇ、りんくん」
「央太どの」
「かすみくん、オレがいなくなって大丈夫かなぁ」
「……それは…」
央太に、嘘やごまかしは利かなかった。
嘘をついたところで彼の天才的な感性のせいか、バレてしまうのだ。
「……りんくん、かすみくん、さびしがりやだから」
「……央太どの」
「だから、そばにいてあげて。オレはもう、無理だから」
「そんな、当たり前でござるよ……だから、央太どのも…」
そんなこと言わないで、と言おうと想いながらも、笑ってる央太に何も言えなかった。
頑張れというには酷すぎる。
でも、無理するなと言うには自分だって央太の死を受け入れられなかった。
こんな太陽のように眩しい子がどうして死ななければならないのか。
鈴は毎日のように神を呪った。
でも、霞からしてみれば、きっと、鈴の何倍も神を呪ったし殺そうと想ったに違いない。
結果、央太の死を受け入れなかった。
入った瞬間、やけに冷えたその部屋に違和感を感じた。
目の前に対峙して理解せざるをえない。
エンバーミングして、腐らないように施された体。
よく見なければ生きていると思ってしないその姿に鈴はどう言ったらいいのか解らなかった。
「……」
きっと無理矢理、霞から取り上げて央太を火葬することは出来る。
でも、そうすれば霞は完全に壊れてしまう。
どうしたら良かったのだろうか。
央太が死んだ時、
「央太が死ぬわけない、だってずっと一緒にいるって約束したんだ、俺が置いていった時だって、帰ってきたら笑っておかえりって言ってくれた。いつだって笑って、かすみくん靴下どこって笑って、お腹すいたって笑って言ってたんだ。俺がいないと央太は生きていけないんだ。靴下だってご飯だって食べられないし、部屋はすぐに汚くなるし、困ったら俺のところにきて、かすみくんかすみくんって呼んでそんな仕方ないやつなんだ。だから、央太は俺の傍にいなきゃいけないんだ、死んだなんてそんなわけないだろ。なぁ、央太。目をあけて笑ってくれよ。いつもみたいに。なぁ、なぁ…」
央太が死んだと、どうしたら霞に理解させられたのだろうか。
鈴には解らない。
椿も、蓮もきっとそれは同じだ。
二人にどう報告したらいいだろうか。
霞は央太の遺体と一緒に暮らしてる、と言ったところで何も解決しない。
人を愛する事は狂うことなのだと、それを見て鈴は理解せざるをえなかった。
霞は央太の遺体に話しかけていた。
ああ、どうしたらいいだろう。
それでも、約束した。
『だから、そばにいてあげて。』
そんなちっぽけな願いを叶えることしか、自分達にはきっと赦されていないのだ。
自分が病気だ、と聞いた時、思ったのが「かすみくんを置いていかなきゃいけない」だった。
鳥羽霞に告白されて、プロポーズされて、何度も二人で夜を越えた。
霞は可哀想な人だ。
家族からの愛が解らず、辛くて苦しくて、誰かに愛されたいのに愛し方が不器用な人。でも、その全てが央太にとっては愛しくてたまらなかった。
キスすれば胸がドキドキするし、抱かれる度に幸せに満ち足りた。
今の医学では治らない、というその病気の治し方は解らないという。
奇跡でも起こらない限り、自分は霞を置いて、死ぬ。
「…かすみくん……」
「央太、大丈夫だからな」
「…うん、オレは大丈夫だよ」
「ああ、絶対にこんな病気治るし、治ったらまた仕事だって出来るし、旅行にだって行こうな」
無理に笑う霞の姿が痛い。
死ぬのは恐くない。
だって人はいつか死ぬものだから。
でも、霞を置いていく事は恐い。
自分が死んだら、霞は笑えるんだろうか。
霞は泣くのも下手くそだ、一人で泣けるだろうか。
皆は一緒にいてくれるだろうけれども、霞は自分が死んで、耐えられるだろうか。
こんな時、自分が女だったら良かったのにと思うだなんて思わなかった。
だって、もしも女だったら霞の赤ちゃんが産めて、霞に何かを残す事が出来る。
でも、自分は何も出来ない。
霞に思い出をあげても、未来をあげられない。
「……」
自分の死よりも、央太は霞のことが、心配だった。
家族のことも含めて、勉強した。
自分は自暴自棄になってるのではないかと思ったがそんなことはない、と看護師から教わった。
『たまに自分の死を冷静に受け入れられる人はいるんですよ』
その言葉に央太は安心した。
「家族は…」
「え?」
「家族は、そうじゃない、よね」
「……」
そう尋ねると、看護師は曇った顔をした。
「大丈夫、です。ちゃんと言って、ください」
震える声で言うと、看護師は困った顔をしながらも言ってくれた。
「家族の死は受け入れられない人が多いですね」
「そう、だよね」
「けれど、段階を越えて、徐々に死を受け入れていく人がほとんどです」
「……」
「それが1年かかる人もいれば、3年かかる人もいる、患者さんは不思議です。人によってはまるで家族がそれを受け入れる時間を待つかのようにもって半年という人が5年も6年も命の灯火を燃やす人もいる」
「……オレも、そうだったらいいのに」
「……橘さん」
はっと言いすぎたかと口に手を当てる看護師に央太は首を振った。
「オレも、かすみくんがちゃんと大丈夫になるまで生きられるかな」
「……」
「……あはは、ごめんね。こんなこといって」
駄目だよね、という央太に「そんなことないです」と言った。
「そんなことないです、何でも言って下さい」
看護師は自分達が本来ならば支えなければならないのに央太に気を遣わせている事に恥じながらもそう言った。
「……っ」
足音が聞こえる。
廊下は走ってはいけないから、早足で。でも、央太の大好きな人の足音が。
「かすみくんっ」
「央太、ごめんおそくなった!」
「ううん」
お仕事お疲れ様、といえば、霞は看護師に会釈してそのまま央太のベッドの隣にある椅子に腰を下ろす。
その様子を見て看護師も部屋を出て行く。
「央太、今日は大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫だよ」
「そうか」
そう言って、霞が央太の体を強くだきしめた。
「……」
「かすみくん、今日のお仕事はどうだった?」
「あ、あぁ……監督に良く出来たって褒められたよ」
「本当?かすみくん、頑張ってたもんね」
「ああ、央太にも何度も台本読み、手伝って貰ったからな…」
「えへへ」
「……そういえば、央太にプレゼントを持ってきたんだ」
「え、何なに?」
「蛍がさ、素敵だって言ってくれた写真集をくれたんだ。橘くんにって」
「……」
そう言って、一緒に見ようと霞がいった写真集は日本だけではなく外国の美しい景色が撮影されたものだった。
「……すっごいきれいだね~」
「ああ、治ったら行こうな」
「…………そう、だね」
霞にそう言いながら央太どうしたものかと思った。
入院して、すぐに足が使い物にならなくなった。
呼吸が苦しくなり、本当は朝が越えられない日のではないかと思う時もある。
央太の病気は本当に特殊だ。
こうして窓越しなら大丈夫ではあるが、直接、太陽の明かりに照らされると皮膚が焼ける。
じゃあ、暗くすればいいのかというとそうではなく、夜になると筋肉がこわばり、呼吸困難になるのだ。
それは喉だけではなく、すでに動かせなくなった脚のように全身が。
それだけではなく、あらゆる細菌に過剰に反応してしまうため、こうして無菌室に入れられた。
家族以外とはもはや手紙でしかやりとり出来ていない。
「……」
写真集をぺらぺらとめくると、央太あての手紙なのか、七緒と蛍からのものが挟まっていた。
手紙を読んだらきっと泣いてしまうから霞が帰ってから読むことにしよう、そう央太は決めた。
「かすみく……」
名前を呼ぼうとした瞬間、
「……うっ……うぅ……けほぉ、けほっけほっ…」
「……央太!?」
喉の、筋肉が拘縮した。
それだけならまだいい。
唇を開く力も抜けていく。
「……央太!!央太!!」
「………」
「……っ!!」
霞は混乱しながらも、ナースコールを押して、そのまま央太の名を呼ぶ。
『どうされましたか?』
「央太が、息ができなくなって……」
『すぐいきます!!」』
慌てて主治医と看護師が部屋の中に入ってくるのが見えた。
「……っ…」
霞の絶望した顔が見える。
ああ、そんな顔しないで、かすみくん。
だいじょうぶ、だいじょうぶだから。
かすみくんを、まだおいていったりしないから。
そう言いたいのに自分は何も出来ない。
ぼーっとする頭で、白く、ふわふわとしたなにかがやってくるのが見えた。
「……」
だめ、まだだめ。
そっちにまだ、いけない。
だって、かすみくん、まだ、まだだめ。
やってくるそれを央太は必死で追い払う。
お願いだから、まだ待って。
そう声にならない声で必死に言うと、ゆっくりと白いものが遠ざかるのが見えた。
「……」
仕方ない、と言いたげに。
死に神だ、というのは前に一度もあって解った。
でもけして恐いものではなかった。
話せば待ってくれるし、ある程度要望は叶えてくれるようだった。
「……っ…央太!!」
「……」
ゆっくりと目を開くと、涙を流す霞の顔が見えた。
ああ、またそんな顔して。
そう央太は笑いそうになるのを見ながら、
「お願いだから、俺のことを置いていかないでくれ……央太…」
そう祈るように言う霞に央太は体が重くて手を伸ばせなかった。
人形でもいいから、霞が現実を見られるまで、もしも死んだ後も傍にいられたらいい。
霞が笑ってくれるなら、それでもいい。
だから、どうか神様。お願いします。
彼が笑っていられるように、どうか、後もう少しだけ、かすみくんのそばにいさせて。
そう願った。
毎日、祈った。
けれど、祈りむなしく、その半年。
桜が満開に咲いた、春の日。
央太は、この世を去った。
「央太が死ぬわけない、だってずっと一緒にいるって約束したんだ、俺が置いていった時だって、帰ってきたら笑っておかえりって言ってくれた。いつだって笑って、かすみくん靴下どこって笑って、お腹すいたって笑って言ってたんだ。俺がいないと央太は生きていけないんだ。靴下だってご飯だって食べられないし、部屋はすぐに汚くなるし、困ったら俺のところにきて、かすみくんかすみくんって呼んでそんな仕方ないやつなんだ。だから、央太は俺の傍にいなきゃいけないんだ、死んだなんてそんなわけないだろ。なぁ、央太。目をあけて笑ってくれよ。いつもみたいに。なぁ、なぁ…」
遺体に泣きつく霞を前に、誰も何も、言えなかった。
ただ、央太が大好きだと言っていた青空と、桜の花だけが、皮肉のように輝かしく咲いていた。
そして、静かにこの日から、否、もっと前から歪んでいたものが加速して狂い始めた。
愛する人を失って、生きていけなかった。
鳥羽霞は、それだけ――――――――橘央太のことを愛しているのだから…。